聞き手:佐藤聰明・石田一志(2001年8月)
ベルク年報(9)日本アルバン・ベルク協会

 
佐藤 
秋山さんが音楽評論をはじめたきっかけというのは?

高橋
秋山とは68年に知り合ったんですが、音楽評論は50年代初めからはじめていました。
松本中学時代は文学少年だったそうです。
疎開先の叔父さんが音楽愛好家でクラシックレコードをたくさん持っていて、
同い年の従兄と共に親しんだのがきっかけだったと言っていました。
戦後の早稲田大学時代は、現代音楽鑑賞会を組織して慶応の湯浅譲二さんと知り合ったり、
CIEでジョン・ケージなどについて知識を得たり、
ドナルド・リチーさんに資料を借りたりしたそうです。
武満さんともじきに知り合って、
21~2才の頃には「レコード音楽」の編集長もやっていたようです。
武満さんに原稿を書いてもらったり、
東京交響楽団の上田仁さんの下で委嘱作品を書いてもらう世話をしたり、
当時の若く才能ある音楽家たちにとって、
秋山はまとめ役であり、縁の下の力持ち的存在でした。
鈴木博義さんもおっしゃってましたけど、
創作する人たちをまとめて企画したりムーヴメントをつくりだしたのが秋山だったんです。
いったん才能を見込んだら、とことん押し出すのが好きというか使命だと感じ、
喜びでもあったようですね。
私自身のこともちょっとはそういうふうにに思っていたみたいです(笑)。

佐藤
当時シュルレアリスムは音楽に影響を与えたんですか?

高橋
早稲田の卒論ですでにシュルレアリスムについて書くつもりでいたそうです。
後になって「シュルレアリスムと音楽」というテーマで研究して、
ベルギーに調べに行ったりしました。
シュルレアリスムは瀧口修造さんが戦前から研究してらして、詩も書いていらした。
当然秋山も影響を受けたでしょうし、瀧口さんをとても尊敬していました。
戦後すぐの時代に、志を同じくする若者たちがこんなふうに師と仰ぐ人のもとに集まって
「実験工房」というグループを作る‥‥最高の時でしたね。

石田
フランスのシュルレアリスムというのは、音楽とは関係なくてむしろ否定の方向なんですね。
秋山さんがベルギーのシュルレアリスムについて書くのは80年代になってからですが、
フランスではなかった音楽との結びつきを
日本で運動体としてやったということは先駆的で面白いことですね。

高橋
彼自身もシュルレアリスティックな詩とか、サウンドポエムを書いていましたが、
いわゆる「詩人」としてではなくて、
アクティヴな社会との関わりとのなかで
詩人としても音楽評論家としても生きたかったということでしょうね。
未来派についても、戦前の未来派と言われた作曲家を発掘したり、
石川義一さん、伊藤昇さんとか、普通の人の目の届かないようなところで、
将来につながるような貴重な芸術活動をした人にスポットをあてて
研究するということは生涯ずっとやっていたはずです。

石田
秋山さんは1929年、昭和4年の生まれですが、
バウハウス・デッサウ校に学んだ山脇巌夫夫妻が帰国して、
バウハウスの理念に立って山脇建築事務所を開設したのが33年。
およそ、このバウハウスもシュルレアリスムも、未来派も、表現主義も、
秋山さんの少年時代に新興芸術として日本に紹介されたものです。
しかし、その紹介にもの足らないところがあった。
そうして戦後編つまり20世紀後半のアプローチを企てたのが秋山さんだったんです。

高橋
50年代にいちど草月でバウハウスをやったことがありますね。

石田
それも発掘なんです。
秋山さんが発掘したからこそ、今日につながっているというところがありますね。
信頼できる先輩から、その前の時代の活動を次の世代に送り出したという。

高橋
それから総合的な芸術ということ。
最後に病院で書いた、実験工房の回顧展のための文章の中に
「実験工房は音楽家の団体ではなかった」とあるように、
芸術の総合をめざしていたわけね。
コクトーがスポークスマンとなった6人組とか、
サティ、ピカソ、ピカビアや舞踏家たちがいっしょになって活動した、
そういうのが彼の夢というか芸術のあるべき姿だったと思います。
だからインターメディアの頃も、クロストークとかで活動したでしょう。
総合的なグループとしてバウハウスもそうだけど、
音楽家という面では研究が遅れているので、2度ほど調べに行っていますね。
未来派も総合的なものとして、多摩美でイントナルモーリをつくったり、
コンサートをやったりとかしましたね。
多摩美では芸術学科プロデュースコースといって、
美術大学なんだけど音楽も文学も映像も含めた、
自分がやりたかったような総合的な芸術プロデュースを教えてました。

石田
多摩美で教えられたのはいつからですか?

高橋
81年からですね。それまでも若いときから、美術学校で美術と音楽を教えていましたね。
音楽だけでなく。

佐藤
秋山さんはフルクサスのメンバーだったんですか?

高橋
ニューヨークでコンサートを指揮したり、63~64年のことです。
ジョージ・マチューナスともとても仲良くしてました。

佐藤
フルクサスの運動を日本に紹介したのも秋山さんではありませんか。

高橋
そうかもしれません。いろんなところに書いているだろうし。
そういう時、必ず自分もそこに入り込んでいるのが面白い。
指揮者のときも貸し燕尾服姿、指揮棒でシャボン玉をつぶすとか写真が残っています。
 

石田 
話が戻りますが、松本中学の芭蕉論があるでしょう、
それから仏文に行き、さらにアメリカ情報教育局でアメリカ音楽への情報を得たりしますが、
59年の最初の渡航先にドイツを選んだのはなぜかな?

高橋
あれは選んだのではなくて自費で59年からヨーロッパに行って、
漂流して最後にとどまったのがベルリンだったわけで。
最初はイタリアに行って、べリオにインタビューしてNHKにテープを送ったりしています。
ミラノの電子音楽スタジオの情報とかも。
ルッソロの未亡人をたずねたり、ドイツでたまたまラジオでクセナキスを聴いて、
パリにたずねていったりしています。
ダルムシュタットにも参加したり、
ベルリンでは石井真木さんといっしょにルーファーのクラスにいったりと、
色々あったんですが、厳しい時代でだんだんお金もなくなってきて苦労もしたようです。
でもベルリンでも毎晩コンサート通いしたり、いっぱい収穫のあった滞在でした。
まだ古臭い書き方をしていた学生のラモテ・ヤングとダルムシュタットで知り合ったり、
その頃ダルムシュタットにケージとかテュードアも来ていてね。
尹伊桑とか大ぜいの作曲家とも友人になりました。

石田
その頃、あちらはちょうどグラフィック・ノーテーションや
シアター的試みが盛んになる頃ですね。

高橋
そういう好奇心というか、芸術の総合運動を研究しながらも、
当時の最前衛の運動に触れていたわけね。

石田
そういえば秋山さんのシュトックハウゼン紹介は
「音楽芸術」への掲載が56年だからダルムシュタットに行く前ですね。

高橋
それはずいぶん早い。まだ実際に行く前ですから、
いろんな外国の音楽雑誌も講読して、情報も語学も勉強したんでしょうね。

石田
アメリカも60年代最初ですか?

高橋
幸運にも、フォード財団に呼ばれて、63年から64年だったと思います。

石田
ちょうどフルクサスもそうだけど、
ケネディ暗殺に黒人問題、反戦運動とか、アメリカが大きく揺れていた時代ですね。

佐藤
秋山さんはそうした揺れた時代を含めて、
様々な思想、芸術が現れた非常に面白い時代に対面してきたわけですが、
その中で何が新しく、何が重要かという問題意識をつねに持っていたんでしょうね。

高橋
そう。つねに社会の中で何が重要かですね。
芸術と社会との接点、そして日常に芸術が常にあるという、
その重要性を多摩美でも教えていたんではないかと思います。

石田
教育活動の方法というのは今まであまりふれられていませんが。
たとえば展覧会でバウハウスとコンサートをやったことだとか。

高橋
それがプロデュースコースの第一回で、第二回が未来派でしたね。

石田
後継者、お弟子さんは?

高橋
まあ徐々にでしょうね。
美術館などには秋山先生のコース取りましたという人がいっぱい全国にいて、
それはうれしいですね。
この間、出会った教え子も、彼の死亡記事をいつも持っていて(笑)、
秋山先生ならどうするかと思いながら仕事していると言ってました。
幅広いジャンルを総合するような仕事をするのは、
今のような混迷化した時代では大変なことと思いますけど…。

石田
混迷化というよりは、個別化ですね。安部公房とジャズの対談をした50何年かの頃は、
もうちょっと上の世代で花田清輝とかが芸術は芸術運動から生まれるという
メッセージを出していた頃です。
今は運動というものが成立しなくなりましたからね。

高橋
そう、みんな蛸壺に入ってますから…。
今こそますます、と思いますけどね。
ムーヴメントを起す人、縁の下で動かす人が今求められていますね。

佐藤
個別化した状況であるなかで、
それを総合しもうひとつの新しい地平を見ようとしている人は今いないと思う。
秋山さんはそういう面で常に幅広いものを持っていました。

高橋
大学でも、自分は若い人から教わっているんだと言って、
ゼミなどで考え方を聴いて楽しんでました。
コンピュータで簡単に作曲できるようなって、
何十年も勉強しなくても感性を持った子が手段を持ちえるのはすごいと。
カール・ストーンが初めて来日したときも可能性をすぐに見つけて希望を持っていましたし。
そういう意味で大学も楽しんでいたと思います。

佐藤
常に世界を前向きに見てるんですね。

高橋
世代のせいかしら?ポジティヴで絶対に暗くならない。
一緒に生活しててちょっと疲れる面もありましたけど(笑)

石田
秋山さんは昭和生まれですが、大正ロマンの匂いをのこしてますね。

高橋
ロマンティストでしたね。
女性もつねに美しくきりっと知的であって欲しいというふうで(笑)。
実験公房の基本精神として言っていた「精神の詩的実験」
つねに何に対してもポエジーというものがいちばん大事だったんでしょうね。
詩人と称していたのは、
詩的精神を持ってつねに実験しているという自負があったと思うんです。
私の演奏に対しても「ポエジーがある」というのがいちばんの褒め言葉でしたし。
「足りないものはポエジー」とかね。

石田
ご本人は文章に書いていないと思いますが、
コクトーが「自分のやることは映画の詩であり、
絵画の詩であり、演劇の詩であり、詩の詩である」と…。

高橋
そうそう、それにすごく共感していたと思います。
草月シネマテークの「ジャン・コクトー生誕100年記念」のプログラムに書いた文章で、
まずその詩の話を書いていました。