「ベルク年報(9)1997-2000」日本アルバン・ベルク協会

1929年5月22日
東京都杉並区生まれ

1935年
中国・天津市に父の転任により家族と移住

1936年
天津市大和日本人学校に入学

1937年
帰国。東京・大森区立第二小学校2年に転入

1942年
世田谷区立松沢小学校を卒業
東京都立六中(現・新宿高校)へ入学

1943年9月
長野県松本中学校(現・深志高校)2年に転入

1947年4月
同校を卒業/早稲田大学第二高等学院入学

1949年4月
早稲田大学文学部フランス文学科に入学

1950年
この頃より東京・日比谷にあったCIE(アメリカ情報教育局)で
レコード・コンサートをシリーズで開き、
構成・解説をして当時のアメリカの音楽や
メシアンなどのヨーロッパ現代音楽を紹介

1951年1月
音楽雑誌「レコード音楽」編集長となる。以後2年間編集長を務める。
8月
作曲家の武満徹、鈴木博義/ピアニストの園田高広
美術作家の山口勝弘、北代省三、福島秀子、駒井哲郎、
写真家の大辻清司ら11名と芸術家の総合的なグループを結成
詩人の滝口修造氏の命名で「実験工房」と名づける

(のちに湯浅譲二、佐藤慶次郎、福島和夫が参加)
第1回発表会として、ピカソ展前夜祭の催しに
グループ・メンバー
全員でバレエ(生きる悦び)を製作。そのシナリオを担当する。
「実験工房」は、ジョン・ケージ、メシアンらとコンタクトをとりながら、
海外の新しい動向を日本に紹介。
今日いうところのインターメディア、ミックスト・メディアの作品を
グループのメンバーたちが協力して製作。
自らは音響詩作品A(テープレコーダーのための詩)、
作品B(囚われた女)
などを製作・発表。

1952年
卒業論文「ランボーからシュルレアリズムへ」を準備・進行するも
提出教授が思い当たらず、早稲田大学文学部を中退。
10月
読売新聞文化欄に音楽批評を書く。
その後同誌を中心に音楽雑誌、美術雑誌、文学雑誌などで評論活動を展開。
この年よりジョン・ケージと文通。

1953年
音楽雑誌「プレイバック」の編集長になる。
また東京交響楽団の機関紙「シンフォニー」誌の編集長も兼任。
実験工房作品発表会で詩作品をたびたび発表。

1956年~58年
東京のブリヂストンホールでシリーズ「作曲家の個展」を企画構成。

1958年7月
日本放送協会(NHK)製作の音楽作品
「言葉と音楽による3つの形象」の第2曲「黒い絵画」「作品・武満徹」の詩を担当。
この作品で同年度イタリア放送協会(RAI)のグランプリ受賞。

1959年~60年
渡欧。
西ドイツ、イタリア、フランスなどの音楽・芸術一般の新しい動向を視察、
NHKなどを通して紹介する。

1960年
桑沢デザイン研究所講師となり、現代芸術論、現代音楽を講じる(93年まで)
声と器楽のための(秘法19)を草月ホールで発表。

1961年
久里洋二、真鍋博、横尾忠則らのアニメーション・フィルムに音楽を作曲。

1962年
ジョン・ケージの来日公演に同行して、演奏家としてアンサンブルで演奏。
「バウハウス」東京展のための講演会で
「バウハウスと音楽」のタイトルで講演と演奏を行う。

1963年
松本俊夫の記録映画「石の詩」(TBS)の音楽を作曲。
一柳彗、高橋悠治、小林健次ら13名と
創造的な演奏家集団「ニュー・ディレクション」を結成。
内外のアヴァンギャルド作品を紹介、
活発な活動を続ける。
バウハウスと今日の芸術・講演と演奏(草月アート・センター)
川添登,秋山邦晴,高橋悠治。
日生劇場こけら落としのための音楽を作曲。
フォード財団の招きでニューヨークに1年間滞在。アメリカの音楽シーンを視察。

1964年
ネオ・ダダのグループ「フルクサス」の
カーネギー・ホールにおけるコンサートでオーケストラの指揮をする。

1967年
東京造形大学創立と共に映像学科講師として映像と音楽を担当(77年まで)
アメリカ文化センターの後援で「クロストーク」コンサート・シリーズを
ロジャー・レイノルズ(6年目からはジョゼフ・ラヴ)、湯浅譲二と組織。
9年間にわたってアメリカ、日本の実験的な作品を演奏紹介。
映画「怪談」(小林正樹監督)の音楽音響補佐(秋山、奥山重之助、鈴木明)

1968年
大阪万博(Expo'70)の「お祭り広場」及び「せんい館」の音楽ディレクターに就任。
松本俊夫の三面投影の映画「つぶれかかった右眼のために」の音楽を作曲。

1969年
代々木・国立競技場の巨大なスペースを使って音楽・映像・光のインターメディアの大イベント
「クロストーク・インターメディア」を開催。聴衆1万人以上が集まり話題となる。

1970年
万博の開会式典のための「鐘の音楽」を作曲。

1975年~77年
東京、渋谷のジャンジャンで「エリック・サティ連続演奏会」構成・解説にあたり、
サティの室内楽、器楽、人形劇、ミニ・オペラなどの主要作品のすべてを紹介。

1977年
多摩美術大学講師となる。

1979年
ソウルでの「アジア作曲家連盟」音楽祭で「アジアの音楽の未来」の演題で講演。

1981年
多摩美術大学教授となる。
     ベルリン芸術週間で「日本現代音楽の伝統」の演題で講演。

1982年
映画「早池峰の賦」(羽田澄子監督)の音楽監督。
講演「松平頼則」、「早坂文雄」
(「作曲との対話」日本音楽舞踏会議・日本の作曲ゼミナール1975-78)。

1983年
神奈川県立音楽堂で現代作曲家シリーズの企画構成を始める。(94年まで全13回)。

1986年
全音楽譜出版社の『エリック・サティ・ピアノ全集』全13巻の監修・解説・訳詩を行う。
(校訂は高橋アキ)
10月
「MUSIQUE  D'ERIK  SATIEサティによるサーカス風シェークスピア」を企画。

1987年
WDR(西部ドイツ放送局)の委嘱により、
ジョン・ケージ75歳紀念番組のために「叙雲啓示頌」を作曲。

1989年
ワークショップ「ジョン・ケージ イン 京都」にパネリストとして参加。

1991年
著書『エリック・サティ覚え書』により第1回吉田秀和賞受賞。

1992年
「パーカッション・フェスティバル/海潮音」の芸術監督(~94年まで)。

1994年3月
多摩美術大学の教務部長になる。
10月
メキシコでの日本現代音楽祭での構成及び講演を行う。

1995年1月
「オマージュ・トゥ・ジョン・ケージ」一柳慧、高橋アキと出演。
「叙雲啓示頌」(1984)が演奏されたほか秋山が追悼詩を朗読。
2月
ニューヨークのミュージック・フロム・ジャパン20周年で講演。
5月
NHK・FMで10回にわたり特別番組「映画音楽の100年史」の構成・解説。
指揮の前田ニ生、作曲の西村朗と共に結成した「アジア音楽フォーラム」の
第1回コンサートをサントリーホールで開く。
7月
新交響楽団定期で「映画生誕100年記念」を企画監修・解説。
10月
明治神宮内苑にて4日間にわたって開かれた「創造する伝統'95」を監修。
11月
神奈川県立音楽堂で「"平和への祈り”コンサート」を企画構成。

1996年6月
「1953年ライトアップ 新しい戦後美術像が見えてきた」展関連催事として
「再現・1950年代の冒険 実験工房コンサート」を企画構成。
7月
同・「再現。1950年代の冒険 映像と音楽」を企画構成。
8月17日
死去